デモクラシーに根ざした学びの場とはどんなふうなのか。
何が、民主的であるか否かを分けているのか。
そんなことを、ここのところ考えている。
日本ではデモクラシーは「民主主義」と訳され、政治の形態のことであるようなイメージがあるかもしれない。私は、もっと広く捉えている。
ヨーロッパや北欧の国々(特にデンマーク!)では、日常の暮らしの中で、また学校などの学び場や福祉、コミュニティワークの現場で、当然のように「デモクラシー」という言葉が聞こえてくる。
私は、デンマークやフィンランドを複数回訪ねて、あの人たちにとってデモクラシーとは、「私はどうありたい/生きたいか」に関係することなのだな、という理解に至った。
私は何が好きで、何が嫌で、何を欲していて、どうであれば幸せなのか。それは誰もが尊重されるべきだということ。そして、その上で「私とは異なる他者と、どう共に生きるか」を探究すること。それがもっと広がった時に、「多様な個人が共に生きられるコミュニティとは、社会とはどんなものなのか」。私が出会った、あの人たちにとっては、すべてが地続きで直結しているようだった。
⬆︎障害がある青少年のためのユーススクールの校長先生。「障害がある彼らにも、他の人たちと同じように若者時代を謳歌する権利があります。私たちの仕事は、それをサポートすること。」という言葉が印象に残っている。
⬆︎森のようちえん。ここの子どもたちは大人のような意思のはっきりした顔をしていた。自分の「こうありたい!」を全身全霊で生きていると感じた。
ひるがえって日本では、まず一歩目である「私はどうありたいか/生きたいか」「どうであれば幸せか」ということ、まず個人が尊重されて然るべきである、というところに社会的合意がないように感じる。多様な個人が尊重されるシステムを構築するために知恵を絞ろう、という風ではなく、既存のシステムが個人よりも尊重される。結果、成長する過程の中で”自分”が損なわれていく。基盤になる”自分”がグラグラするから、むしろ他者や社会を信頼することがむずかしい。そんなことがたくさん起こっているのではないか。だとしたら、それは個人にとっても社会にとっても、とても不幸だ。
私は、デモクラシーに根ざした、デモクラシーのための学校教育を、それを願う人たちと一緒につくっていきたい。それは、こんなことを重視する学びの場。
- Well Being – 今ここと将来が幸せであること –
- Respective Relationship – 尊重し合う関係性 –
- Participation – 子ども・学習者の参加・参画 –
また、それは、子どもの権利条約や、学習権宣言のスピリットの具現化とも言えるものだと思っている。
“学習権とは、
読み書きの権利であり、 問い続け、深く考える権利であり、
想像し、創造する権利であり、
自分自身の世界を読み取り、歴史をつづる権利であり、
あらゆる教育の手だてを得る権利であり、
個人的・集団的力量を発達させる権利である。”
学習権宣言は、何回読んでもシビれます。。
当事者である子どもたち・若者たちや、既存のシステムの中で、葛藤しながら課題に向き合っている先生や教職員の人たちと、この方向を目指したい。
しかも、理念だけでなく、制約がある今の現場で、具体的にやれることを提案し、そのためのリソースやツールを開発していきたい。
全国の同志とつながりたいと思っています。ぜひ一緒にやりませんか?
これから、ブログでもその具体的な中身を、考えたり集めたりしてアウトプットしていきたいと思います。